Yojodo Café — Episode 9
When an Empty Heart Can't Sleep
その男性が養生堂に来たのは閉店間際だった。
「まだ大丈夫ですか?」
少しかすれた声だった。
「大丈夫ですよ」
クコが微笑む。
男性はホっとしたように席に座った。
大棗が白湯を運ぶ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
男性は湯気を見つめた。
けれど、どこか力が抜けているように見えた。
「最近眠れなくて」
ぽつりと言った。
養生堂のみんなが耳を傾ける。
「何か悩み事があるの?」
大棗が尋ねる。
男性は首を振った。
「特には...」
「仕事は忙しいですけど、順調です」
「次のプロジェクトも楽しみで」
「忙しいのは嫌じゃないんです」
少し考えてから続ける。
「眠れない以外は、特に問題ないと思います。」
そう言って笑う。
けれどその笑顔は少し無理をしていた。
クコはしばらく男性の顔を見ていた。
そして静かに言う。
「今日は酸棗仁ちゃんに聞いてもらった方が良さそうですね。」
奥の隅で本を読んでいた酸棗仁が顔を上げた。
「夢を見る?」
男性は驚いた。
「見ます」
「毎日?」
「毎日です」
「朝起きても疲れてる?」
「はい」
「夕方になると、どっと疲れがでる?」
男性はゆっくり頷いた。
酸棗仁はを本を閉じて立ち上がる。
そして男性の向かいの席に座った。
「最近、休みの日は何してる?」
突然の質問だった。
男性は考えた。
しばらく考えた。
休みの日。
親の病院
妻と買い物
家の修理
会社からのメール
次々と予定が浮かんでくる。
しばらく黙っていた男性が、ふと顔を上げた。
「あれっ...」
小さな声だった。
「僕、休んでいない...」
酸棗仁は黙っている。
男性は続ける。
「布団に入っても次のプロジェクトの事ばかり考えて...」
「楽しみ過ぎて、アイディアが次から次へと浮かんできて...」
「でも...」
そこで言葉が途切れた。
静かな沈黙が流れる。
雨上がりの風が窓から入ってきた。
酸棗仁が口を開く。
「疲れてるんじゃないんだと思う」
男性が顔を上げる。
「え?」
酸棗仁は静かに言った。
「たぶん、空っぽなんだよ」
男性の目が揺れた。
「頑張る人はね」
「気づかないんだ」
「まだ出来る」
「もう少し頑張れる」
「みんな困ってるから」
「僕がやらなきゃ」
本当にその通りだった。
男性は何も言えない。
酸棗仁は続ける。
「でもね」
「身体はちゃんと教えてくれる」
「眠れない」
「夢を見る」
「疲れが取れない」
「それは休んでって合図」
窓の外で風が木々を揺らした。
男性はまっすぐ酸棗仁を見る。
少しだけ張り詰めていた糸が緩んだようだった。
「どうしたらいいですか」
その時、小豆で薄く染めたようなお茶を、クコがそっと差し出す。
「これをどうぞ」
男性は両手で湯呑を受け取った。
酸棗仁はその様子を見つめながら言った。
「今日は眠ろうとしない」
「え?」
「眠れなくても大丈夫」
「ただ布団に横になって」
「身体を休ませるだけでいいよ」
大棗が慌てて口を挟む。
「ちゃんと寝なきゃダメだよ!」
酸棗仁が笑う。
「ほら」
「そういうところ」
「大棗ちゃんは昼の担当だから」
「夜は私の担当」
「何それ!」
みんなが笑った。
男性もつられて笑う。
久しぶりに、本当に笑った気がした。
帰り際。
男性は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
何かが解決したわけではない。
明日から急に元気になるわけでもない。
それでも。
来た時より少しだけ肩の力が抜けていた。
夜風が吹く。
窓辺では酸棗仁がまた本を開いている。
「眠れそう?」
大棗が聞く。
酸棗仁は微笑んだ。
「どうかな」
そして夜空を見上げる。
「でも今日は少しだけ休めると思うよ」
どこかで風鈴が静かに鳴った。
酸棗仁は小さく微笑む。
「今年も来たね」
養生堂の灯りは今日も静かに揺れていた。
第九話 ~完~



クコさん、こんばんは。
このお客さんがまさに私が体調を崩す直前の状態と同じでした!読んでいて、びっくり🫢
あの頃、酸棗仁ちゃんに会いたかったですね。
自分がどうにもならない時って、あれこれアドバイスをされても頭の中を滑っていくばかりなんだよなぁ。たまには根拠のない「大丈夫」もいいのかも。酸棗仁ちゃんには根拠があるんだろうけど😆